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日本の文化を破壊する御役人

2009727

宇佐美 保

 昨年或いは一昨年でしたでしょうか?

NHKのテレビ放送で、「日本酒を西欧に売り込む為」に、西欧で開催されたワインの品評会(だったと思います)に、大吟醸酒、吟醸酒など、それに加えて純米酒も出品した模様が映し出されていました。

 

 そして、

「純米酒」が、「大吟醸酒、吟醸酒」を抑えて、西欧人達の圧倒的な評価を得ていました。

 

 この結果に対して、品評会に出席した日本の酒類関係者は、

「船便で運ばれてくる際、大吟醸酒、吟醸酒などは、醸造アルコールが添加されているので品質が安定していて、不変であったのに対して、純米酒は醸造アルコールが添加されていない為、輸送中により良い発酵が進行してしまい、その分品質が却って向上し、西欧人の高い評価を受けたのでしょう。」

と訳の分かったような分からないようなコメントを発していました。

 

 この関係者の(屁理屈的)論法を是認するとしても、次のような結果になるでしょう。

「日本でも、大吟醸酒、吟醸酒などと御米を(50%以下、或いは60%以下と)削り落とさずとも、発酵加減をより(船便並みに)調整すれば、純米酒は、大吟醸酒、吟醸酒以上の品質を確保できる」との結果です。

 

 

 私には、「醸造アルコール」の存在が不思議でならないのです。

 

 

 私の友人の友人は蔵元でした。

そして、私の友人が蔵元の友達を訪ねて、御酒の作る現場を見せてもらった時、とても驚いたそうです。

折角作った御酒を、アルコールで薄めて、その薄めた分の味を補給する為に、
化学調味料を腕に抱え込んだセメント袋のような袋から、どかどかと入れるのを見たからです。

(その友人の友人は、そんな現場を良く見せたものだと思いましたが、見せたほうとしては日常茶飯事の当たり前の事だったのでしょう)

 

 以来、彼は、日本酒は純米酒一本に決めているそうです。

私も彼を見習っています。

しかし、この話を、私が仕事を手伝っていた社長さんに進言しても、私の目の前で、清酒(醸造アルコール入り)のお銚子を次から次へとカラにしていました。

 

 私の父も、毎晩のように、黄桜(2級の清酒)の1升ビンを抱えて寝床に潜り込んでいました。

(本人は”黄桜が一番美味い”と言っていましたが、
私からは、”酒は酔いつぶれる為”のものだったように見えました。

ですから、”醸造アルコール(食用に用いられるエタノール、それよりも、メタノールなど入っていなければ化学薬品としてのエタノール)だけでも良かったのでは?”と今でも思っています)

 

 

 ところが、東京新聞(2009726日)に「純米酒復活の先駆け――小川原良征さん」との次の記事が載っていました。

 

 

 埼玉県蓮田市に、日本酒の世界に革命≠起こした蔵元がいる。「神亀酒造」の専務、小川原良征(六二)だ。アルコールを加えた酒が主流だった一九八〇年代全国に先駆け、生産するすべての酒を添加物なしの純米酒に切り替えた。いまや日本酒ファンの垂ぜんの的だが、ここに至る道のりには、壮絶な闘いがあった。         (出田阿生)

 

薄い琥珀色の液体が、ゆらりとグラスで揺れる。紹興酒にも似た香気が立つ。仕込みから三十年近くねかせた、神亀の大古酒だ。小川原は「日本酒は、熟成させて味が深まっていく。これはエビチリなんかとあいますよ」と、うふふと笑う。

 

 

日本酒は、熟成させて味が深まっていく」は、船旅で旨くなる説にも一理あることなのでしょう。

但し、アルコールを添加してしまえば、熟成とはおさらばです。

 (記事を全文引用するのを遠慮して、最初はこの部分をカットしました。

しかし、どこもカットするには忍び難いのでカットを止めました)

 

 

 宅地化が進む武蔵野台地の雑木林にひっそりと立つ神亀酒造は、嘉永元(一八四八)年から百六十年続く小さな蔵。「神亀」「ひこ孫」などの銘柄で知られる。小川原は七代目。一九八七年に全国で初めて、生産の全量を純米酒に切り替えた

 純米酒づくりを決意したのは東京農大の醸造学科時代。恩師がふと漏らした一言に、衝撃を受けた。「ウチの娘は、日本酒はまずい、白ワインしか飲まないと言ってる。このままだと日本酒は消えゆくだろう

 

 

 小川原氏を純米面作りに向かわせたこの恩師の「ウチの娘は、日本酒はまずい、白ワインしか飲まないと言ってる」は、冒頭に掲げました西欧のワイン評者と同じ見解ではありませんか!?

 

 更に、記事を続けます。

 

 

 戦前は、酒といえば純米酒のことだった。ところが戦中、米不足から、アルコールなどを混ぜた酒がつくられ始めた。戦後は、糖類や調味料で味を調えた三倍増醸酒(三増酒)、アルコール添加酒(アル添酒)が主流になった。

 

 

 この「糖類や調味料で味を調えた三倍増醸酒」の製造現場を私の友人は見て驚愕したのでしょう。

 

 

米余りで減反政策が始まってからも、純米酒は、復活しなかった。国策だったからだ。旧大蔵省は七二年まで、仕込み量の35%は三増酒にするよう通達を出していた

 「酒本来の姿である純米酒に戻し、うまい酒をつくらなければ生き残れない」。小川原は早速、純米酒製造を税務署に申請。しかし「前例がない」とはねられた。ようやく「試しに一本(原酒3千g分)だけ」と許可され、六七年に初めて純日本米酒をつくった

 

 

 この「国策」と言うのは「仕込み量の35%は三増酒にするよう通達を出して」、日本人の味覚と言う大事な文化を消し去ろうとした陰謀なのでしょうか?

いや、やはり、「減反政策」の強行の為には、純米酒用の米をどこにどれだけ作らせる等の決めの細かい米つくり指導は、その米の生産を許可されないところからの反対問題も生じたりして複雑で面倒くさいから、一律な「減反政策」を」実行し、後は「前例がない」とはねつける御役所仕事の好例、典型なのかも知れません。

 

 又、続けます。

 

 翌年から徐々に製造量を増やしたが、ここに税務署という壁が立ちはだかった。「二十年間、あの手この手の嫌がらせが続いた」。熟成のためねかせている純米酒を「不良在庫」扱いし、翌年の製造量を制限する。アル添酒に必要な、添加物の使用許可をわざと出さない・・・。

 「レギュラー(三増酒)に戻せ」という税務署に、小川原は「レギュラーつていうのは純米酒のことだ。そんなに妨害するなら、廃業命令を出してくれ」と叫んだ。

税務署からの帰り道、左目が突然見えなくなったことも。ストレスで網膜の裏に穴が開いていた。

 

 

 縦割り行政が非難される中、役所利害問題が絡むと、横方向の役所間の連携が見事に発揮されるのでしょう。

旧大蔵省にしても、その傘下の税務署にしても、「三増酒」が不味くても安くて大量に売れさえすれば、酒税が確保できるとの目論見なのでしょうか?

 

 

 当時は蔵元から酒販店への裏手数料も常態化していた。純米洒づくりは費用がかさみ、マージン分など出ない。地元での販売をあきらめ、関東近県歩き回って、自力で売り先を開拓した。

年間五千万の売り上げで、借金が五億円。どん底をはいずり回った」。

先祖伝来の田畑を切り売りし、金策に駆けずり回った。米の質だけは落とせない。杜氏の給料支払いを遅らせてもらって、米を買い付けた。

 体がぼろぼろになって動けない日もあった。兵庫・芦屋のお嬢さまだった妻美和子(五六)は、夫が「もうやめたい」と言うと「どうぞ。でも私は造り酒屋に嫁に来たのよ」と静かに答えた。「これが決めの一発で…」

 小川原の一徹さを後押ししていたのは、「くらばあちゃんが守り抜いた酒蔵を、つぶすわけにはいかない」という思いだった。

 

 

 「年間五千万の売り上げで、借金が五億円。どん底をはいずり回った」状態の小川原氏には、国からの救いの手はなく、妻の美和子さんの言葉と、「くらばあちゃんが守り抜いた酒蔵を、つぶすわけにはいかない」という思いだったというのは、辛い話です。

 

 

二〇〇四年に百一歳で亡くなった祖母くらは三十代の時、日中戦争で夫を亡くした。戦時統制で蔵をつぶすよう圧力をかけられる中、女手ひとつで酒蔵を守った

 くらは、「跡継ぎは酒の味が分からなければ」と、小川原が十四歳のときから、夕方になるとつまみを用意し、お爛をつけて晩酌させた。「酒造りは宮さまでもできない仕事」が口癖だった。

 

 

 この祖母くらさんの思いが、小川原氏の多くの行動を支えていたのでしょう。

 

 

 造り酒屋が舞台の社会派漫画「夏子の酒」の作者・尾瀬あきらは、小川原を「天性の味覚がある」とし、その酒については「宝のような酒。辛口・甘口といった区分を超え、熟成した酒が基本と教えてくれる」と評する。原料は、米と米麹、水のみ。生産地まで通って最上級の米を入手し、蓋麹法という手間のかかる伝統的な手法で醸す。もろみをしぼるときも、人手は倍必要だが風味が失われない昔の機械を使う。小川原は、納得できなければ杜氏や蔵人とも平気で衝突する。

 

 

 この社会派漫画「夏子の酒」をどこかで見た記憶がありますが(御酒も味わいましたが)、その裏に小川原氏が居られた事は知りませんでした。

 

 

小川原は、地元の平和活動団休の呼び掛け人にもなっている。先日も「憲法九条と酒造り」という題で講演。「戦前の純米酒が廃れたのは戦争のせい。戦争はすべての伝統を破壊する。いい酒をつくるには、平和でなければ」と淡々と話す。

 「満州からの引き揚げ者がせっかく農業を始めたのに、それをつぶすなんて」と、成田空港闘争にも共感。現在は有機農業を営む元活動家とも気脈を通ずる。毎年、小川原を慕う酒販店や料理店の人々もー緒に酒用の米の田植えをし、その米で「真穂人」という酒をつくっている。

 

 

 「成田空港闘争」当時は、私は、会社と家との往復の日々で全く世事に無頓着で、闘争の背景を知りませんでした。

(但し、空港開港のその年の夏、初めて、イタリアの大テノールマリオ・デル・モナコ先生のもとへと、その空港から農民の方の苦しみも知らずに、飛び立ったのでした

この件は拙文《マリオ・デル・モナコ先生と私》をご参照下さい)

 

 そこで、改めて、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia』のお力に縋りますと、次のように書かれていました。

 

政府は地元から合意を得るどころか事前説明すら怠り、代替地等の諸準備が一切なされていなかったことから農民を中心とした地元住民の猛反発を招いた。政府は閣議決定であることを盾にして一切の交渉行為を行わなかったために、地元農民達は720日に「三里塚芝山連合空港反対同盟」を発足させ、三里塚闘争が始まった。

・・・

三里塚・芝山地区には戦後入植して農民となった人が多く、そうした入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体となっており、農民としての再起をかけて行った開拓がようやく軌道に乗り始めた時期に当たっていた。そのため、自分たちが創り上げた土地を自分たちで守るという考え方が特に激しくなっても無理がない背景があった。

 

 

 ここの記述にある(又、東京新聞の記事にもある)「入植者は元満蒙開拓団員の引揚者が主体」であって「そのため、自分たちが創り上げた土地を自分たちで守るという考え方が特に激しくなっても無理がない背景があった」の件は、マスコミは私達に伝えてくれていたのでしょうか?

 単に過激な闘争だけがテレビなどから私の目に飛び込んできていただけだと思います。

毎年、NHKは8月頃になると、先の戦争の様々な悲劇をテレビで伝えてくれます。

元満蒙開拓団員」のご苦労も沢山報道してくれていました。

でも、成田に入植された「元満蒙開拓団員」のご苦労は放送してくれてなかったと存じます。

 今年こそはこの件の放送を是非ともお願いいたします。

 

 それにしましても「日中戦争で夫を亡くした。戦時統制で蔵をつぶすよう圧力をかけられる中、女手ひとつで酒蔵を守った」祖母くらさんの思い、即ち、「国は国民を助けてはくれない、国は国民を利用するだけだ!」の思いから、小川原氏は「国民は国民同士が助け合う事が必要なのだ」の思いを強く抱き、次の記述にみるように「後進を指導・育成して」居られるのだと存じます。

 

(ここで一寸寄り道させて下さい!小泉元首相の二男(小泉Jr氏)が次の選挙に立候補すると言うことで、祭り中の選挙区を歩いて回りながら、選挙民と握手を交わしている最中に、小泉Jr氏に握手の手を差し伸べた対立候補の方を完全に無視して、小泉Jr氏は、選挙民との握手を再会している映像がYouTube動画に流されています。

 

 

そして、小泉Jr氏の対立候補完全無視の弁明は、“「私にとって祭りとは有権者の方との握手の機会、ふれ合いの機会だから、一人でも多くの有権者と、一秒でも多くふれ合いたい。あの時はマスコミの方もたくさんきていた。何もあの場所でそういうこと(対立候補との握手)をすることもないと思った」と釈明した。”

とかだそうです。

敵に塩を贈る位の態度があっても良いではありませんか!?

それにしましても、握手くらいで選挙の票が買えるとは、なんとも安手な選挙ではありませんか!?

(それも「私にとって祭りとは有権者の方との握手の機会、ふれ合いの機会」とは噴飯物です、
それに、「ふれ合い」たるや「ふれてやる」と言った態度です)

その結果、小泉Jr氏は、結局は、何代か続いた「年商1億円≠フ国会議員という「家業」」である「政治家小泉商店」の暖簾を守り、一族郎党を養う事が可能となるだけではありませんか!?

(この件は拙文《世襲とドラフト制》もご参照下さい)

 

小泉Jr氏は選挙民達に何をしてくれると言うのでしょうか?

握手して(ふれて)やっただけで十分だとでも思っているかもしれません。

(そして、そんな小泉Jr氏に選挙民達は満足しているのかもしれません
それにしましても変ですよね?
小泉Jr氏が、父の地盤を引き継ぐなら、
父の政治活動を総括し、
その上で、私はこうしたいんだ!だから立候補する!
と言うのなら分かりますが、只触れ合うだけとは御粗末です
そして、小泉Jr氏のホームページを訪ねますと、又又、お粗末なものです

閑話休題!

 

 日本酒離れは進む一方で、蔵元の数は一九六〇年代後半と比べて半分近くに。八割以上が赤字経営ともいわれる。全国千三百蔵のうち、生産の全量を純米酒にしているのは二十蔵。全生産量の18%だ。

 ただ、純米酒に切り替えた蔵は前年より生産量が増えているという。小川原は「五年辛抱すれば、純米酒に切り替えられる」と後進を指導・育成している。最近では、純米酒に切り替える蔵元を支援するファンドの発足にも携わった。

 

 教え子の一人が、森喜酒造場(三重県伊賀市)の森喜るみ子(四九)。いまでこそ「るみ子の酒」の銘柄で有名な蔵元だが、跡を継いだ当時は廃業寸前。杜氏も蔵人も去った。

 小川原に毎日電話をかけ、もろみの状態や機械トラブルなどについて教えをこうた。「朝晩二回、まさに命の電話だった。小川原専務は拾う神″でした」。販路も小川原が紹介してくれた。

 小川原の夢は純米酒を「世界の酒」にすることだ。疲弊する米作農家に所得を保障し、米価を下げる。酒の値段を下げられれば、関税がかかっても手ごろな値段で海外に輸出できる。景気の停滞で、自動車輸出に頼る時代は終わった。「カキにはシャブリ(辛口白ワ

イン)じゃなく、純米酒もあう。世界中の人にうまい酒を知ってほしい」

     (敬称略)

 

 

 私はワインの味は全く分かりませんが、純米酒の味は大好きです。

早速、小川原氏の純米酒「神亀」を手に入れたいと思っております。

 

 

 あ!それから、次なる「デスクメモ」も書かれていました。

 

何気なく飲んでいた純米酒に、お上″との壮絶なドラマがあったとは知らなかった。

「第三のビール」の課税論争を思い返せば、さもありなん。米も麦も酒類も国が牛耳ってきた、その延長線というわけか。でも、お酒好きの人たちは文句も言わ(え)ず年間一兆数千億円も納税。お忘れなきよう。 (剛)

 

 

 このような素敵な記事を目にする事が出来る東京新聞に購読紙を変えて良かったなと思っている次第です。

(この件は拙文《ノーブレス・オブリージと日本人》をご参照下さい)

(補足)

 

 醸造アルコール入りの日本酒に関しては、「ウィキペディア」に、次のような記述を見ます。

 

本醸造酒 [編集]

精米歩合70%以下の白米、米麹および水と醸造アルコールで造った清酒で、香味及び色沢が良好なもの。使用する白米1トンにつき120リットル(重量比でおよそ1/10)以下のアルコール添加(アル添)をしてよいことになっている。そのままではアルコール度数が高いので水で割ってあることが多い(割水)。そのため、旨味や甘味にとぼしく、一般的に味は軽くなり、すっきりしたものとなる。

 

 

 即ち、このまま読みますと、“なんだ!アルコールの添加は、お米の重量の10%以下なんだから大した事ない!”と思いがちですが、たとえ、お米の重量がお酒の重量と等しいと見ても、10%のアルコールを添加したら、お酒のアルコール度は、その分10%上昇してしまいます。

 

 そこで、「そのままではアルコール度数が高いので水で割ってあることが多い」と書いてありますが、御酒にアルコールを添加してもお酒のアルコール度が変化しない為には、添加するアルコールに予め水を加えて、お酒と同じアルコール度にして置けば良いのです。

 計算を簡単にする為に、お酒のアルコール度を20度(アルコール分:20%)と看做すと、添加するアルコールも水で割って20%にしておけば良いのです。

 と言うことは、アルコールの4倍の量の水で割っておけば良いわけです。

従って、「白米1トンにつき120リットル(重量比でおよそ1/10)以下のアルコール添加(アル添)をしてよい」との記述は、「白米1トンにつき600リットル(重量比でおよそ5/101/2)以下の20%アルコールの水を添加をしてよい」と言うとんでもない規則となってしまうのです。

 

 この証拠に、別の項目「アルコール添加 [編集]」では、次のように書かれています。

「上槽の約2日前から2時間前にかけて、ゆっくりと丹念に30%程度に薄めた醸造アルコールを添加していくこと。」


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